昭和50年06月29日 朝の御理解
御理解 第73節
「変人になれ。変人にならぬと信心はできぬ。変人というは、直ぐいことぞ。」
変人にならぬと信心はできぬと。これは本当の信心真の信心。その真の信心というのは、変人にならぬと出来ぬとこうおっしゃっておられる。だからどうでも変人にならなければならない。変人とは直ぐい事だというのです。直ぐいと言う事は真っ直ぐいという意味じゃないです。直ぐいというのは、天地に通う道とでも申しますか。いうなら普通でいう常識的な、または道徳的な生き方からすると、真の道というのは、曲がりくねっておると言う様に思います。
ですから例えて申しますと、戦後に遅配欠配が続いた時分です。いわゆる道徳的な、教育を受けた方だったでしょうね、ある学校の先生が、もう絶対に闇のものは買わないという生き方で、闇の事をする事はいうならお上に対する、これは違法だ違反だという考え方をして、その闇のものを一切を口にしなかったと。そして栄養失調になって亡くなられたという話があります。
これは成程非常に道徳的なようですけれども、道徳的ですけれどもね、それでは天地に、無尽蔵に限りなくつながる道とは違うんです。常識的ではない道徳的ではない。超常識であり超道徳、それが真の道です。それをこれが本当だというて、まっすうぐ行きよるから、こう道が例えば曲がりくねって行った所を、まっすぐ行きよるから、田んぼに行きあたったり、溝に行きあたったりして難儀をせんならんのです。だから信心と道徳的なものは、根本的に違うです。
だからそこん所を、まずよく分からせて頂いてです、いうならば信心をさせてもらわなければならない。信心をさせてもらうならば、真の道を歩かなければならない。それには、変人にならないとです、今まで私共が人間的に身に付けてきた常識とか、道徳とかっというものは、場合によっては一応それをかなぐり捨てなければ、信心の道はわからんのです。本当におかげの受けられる信心の道に出る事は出来ないです。
だからとってと言う事ではないです、矢張り私共人間は、人間の道というものがありますから、まず常識も豊かにならなければなりませんし、また道徳的でもあらなければなりません。その常識的であり又は道徳的であるという、そういうものを踏んまえて信心がなされる時にです、本当の信心の道が分かるのです。信心の道というのは、だから場合にはです、非常識又は非道徳にも、さも似たような場合があります。
けれども決して非道徳とか、非常識というのではないのです。常識道徳それを踏んまえてのものですから。昨日は竹葉会でございました。竹葉会でお話させて頂いたことでしたけれども、最近合楽の傾向というものがですね、これはいつの場合でも、本当に思うんですけれども、あり方が段々変わってくるとでも申しましょうかね、それが実に、いうなら素人でも、なるほど今そういう傾向にあるんだなという、生き方に添うていかなければおられないように、はっきりしているわけです。
まあ例えて申しますと、この頃から黄金の一万円札ですね、大変おかげを受けた方でそのお礼に、黄金の金の一万円札を、その翌日その翌日三日間続いて、金の杯が二回続けてお供えになった。本当に思いもかけない所からです。いうならそういう例えば、勿論金のメッキでしょうね杯なんか。その純金というわけではないでしょうけれども、やはり二十四金の金がまいてある事は間違いない。その黄金のものがです、三日間続いてこうやって、そのお供えがあったりすると、何か考えさせられるわけですね。
神様にほう是はまた愈々、合楽の黄金時代と言った様なものが、間近にまあよく考えれば感じられるわけです。と言う様です例えばここ二、三日お届けのある事で御座いますけれども、今合楽にはよその教会で長年信心をなさった方達が、とみに増えて合楽にお参りされるようになった。しかもどの人もがもう打ち込んでの信心になっていかれる。上の方からまいりますなら、日田教会吉井教会、久留米地区では宮ノ陣教会、東町教会。いうならば、北野の教会遠くは宮崎あたりの教会、特にあの大淀教会。
もうそれこそ合楽ができたために、信者が減っていく。信者をとられる。それを露骨にこのあらわれて言いだした。お参りをする人たちは、ただ有り難いの一念で、もうただ有り難いもんですから、先生にもとにかく合楽にお参りさせて頂いておかげを頂きました。はぁそれはよかったのち初めは言いよんなさるけれども、段々段々露骨になってくる。そして合楽に参ること、合楽はもう愈々違っておると言う様な言い方をされる。
昨日も戎浦さんの所のお婆ちゃんが、宮崎の方へおられます。そんな関係であちらから、いくらもお参りがあるわけです。それであちらの大淀教会、いつか手紙も何回もきましたね。信者をとらんでくれ、うちのような小さい教会は、一人の信者でとても差し支えるんだ、困るんだと。だから参って来る様になったら断ってくれ、おかげの泉やら送ってくれるなと言うて切々と手紙が参りました。
ですから折角そう云うてありますから、それを申しましてもそういうものを乗り越えて、やっぱやってくる訳です。またおかげを頂く訳です。遠方ですから月に一回か二月に一回しか参れんような方もありますけれども、お届けはみんな電話である。又はおかげの泉を頂いて、かくおかげを頂いたと、それこそ奇跡の続出である。だから金光様の信心で、そげなおかげの頂けるはずはないと言うて、腹かく先生があるんです。
そんな事はないですよね。金光様の信心で、そげな奇跡的なおかげの受けられる筈はなか、だから間違うとる、とこう言うわけなんです。今高田さんなんかの場合は、もう一家一門で、お参りになっておられます。はじめの間は自分がただ、合楽の信心の稽古と言いよったのが、最近は奥さんも一緒に同々で参られるようになった。ご兄弟の方達も姪やら兄弟達が一緒にお参りをなさるようになった。そして宮ノ陣の教会へ、もう四十五年間も信心のけいこをなさっておられる。
一度合楽におかげを頂いて、御理解を頂くようになったら、どうでもやはり真の信心が分かりたい。もう本当に天地につながる道を説いて下さる。四十五年間も信心したばってん、先生ここではね、おかげは確かに頂いてきた。頂いてきたけれどもです、いうなら本当の道というものを教えられなかった。合楽の道が大きな道であるならば、宮ノ陣で習うたのは、あぜ道のような感じがすると言うて、先生に話された。
あぁあちらの先生がでけておられますから、もうそげんいやあそうたいと言うて、その事をテーマにして、今度御本部で信者という者を、私有物にしてはならない。俺方の信者というふうに決めちゃならない。金光大神の道は大きい、だからどこで稽古するでも、信者の中にそういうのがあったら、大きくならなければだめだと言う様なお話をなさったほどしですからね。
それでもやはり、何十年も信心の稽古をした方達が合楽、合楽というて参ってくるならばです。こりゃ人間ですから、良い気色はするまいと私は思います。もう私、常識的にいうならです、とても私、宮ノ陣と言やぁ、親先生の場合でもそうですけれども、今の若先生でも、ああいう心やすい仲ではありますし、特に合楽に目をかけて下さる先生方ですから、もう私普通でいうなら気の毒で、人情的に言うたら。
東町教会でもそうです東町の教会からも、何人しかも熱心に打ち込んでお参りをなさっておられます。そして先生にでおかげの泉を読んで下さいというてテープを持って行って聞いて下さいという位に、いわばこちらが燃えておりますからね。けれどもそのやっぱり人間ですから、それこそ合楽だけが金光様じゃなかばのち言う様な事になって来た訳です。昨日の朝朝の御祈念に日田の井出さんが。
毎朝ああしてお参りになります。お母さんという人は二十年間、それこそ教会に泊まり込みで御用を頂くというほどしに、熱心な信心をなさっておられる。その方が昨日一昨日、教会に正式に私はこれから、ご恩は決して忘れはしません。けれども私は合楽の教会にお参りさせて頂きます。勿論改式までしてあるとです。二十年の間おかげを頂いてまいりました事は、ご恩は決して忘れませんけれども、私は合楽のとにかく御理解の虜になってしまいましたと言うてお届けをされた。
そしたらそれこそ御結界、席をそれこそ蹴って、腹かいて裏の方へ駆け込むようにして立たれた。だから本当にあいすまん事ですけれども、どうぞ日田教会の愈々発展御比礼をお願いしますと言うて、お届けがあっておる。しかも最近日田からは、総代幹部という方達が、また実際におかげを受けるんです。二人、三人じゃないもうそれこそ、日田教会からいくらもお参りがあります。
今の合楽教会には、そういう傾向が非常に強いわけなんです。だからさっき、黄金類が例えば集まってくるといや、それが三日も続くとか、例えばそういう傾向にある。そこにです、私は合楽の生きた神様の働きを感じずにはおられないねという話を、昨日させてもらいしまた。そういう、どうにもこうにもできない、神様の働きと言わなければ、思わなければおられないほどしの働きというものが、合楽には非常に強いんです。
そこに生きた神様を感じんわけにはいけんと言う訳でございますけれども、今日のお話から申しますとです。変人になれと一応は例えば私と親教会の場合でもそうであった。もうそれこそ、大坪はもう人非人とまで言われてきた。だから普通でいう人非人ではなくて、人間が人間の面しとるだけで、ありゃもう獣だというのではなくてです。そういう風に表現されたけど、私としてはです今こそ人間から神様へ変わっていく。
人間にして人間で非ずと言う様に、生神を目指して信心をさせて頂いておるんだという頂き方をさせて頂いておる。そして今振り返ってみるとです。そうではなかった事が段々分かってきて、親も子も一緒に助かっていけれる道が開けてきたわけですけれども。信心というのは、やはり変人にならなければできない事が解りましょうが。人が人非人と言うてもです、非常識じゃというてもです。私が本当に例えば人非人かというと、どちらかと言うと私はもう、それこそ自分の感情過多ですね。
感情が情が多い過ぎると言う事に、とにかく自分で悩み苦しむ位に、人よりも感情が豊かだった、豊かというか大きかったんです。それが私はいっぺんに冷たくなったように、親教会をいかにも顧らないように、五年間という断絶がでけたんです。だからその時分は、確かに椛目の大坪は、人非人と言われても仕様がないような中にあったけれども、実際は、その人非人と言われる時に、私はそれこそ人にあって人にあらず、神へ向かっての精進が一生懸命できとった時です。
例えば今合楽に起きておる一つの傾向というものがです、あっちこっちの教会から、しかもただお伺いごととか、ただお願い参りじゃなくて、本気に合楽の信心を、愈々求めての方達がです。他所の教会で長年何十年と稽古をした人達が、合楽に向かって、信心の稽古に通うておられると言う事です。これを人情的にいうたらば、ああたが参ってもろうちゃ、ああた方ん親先生と心やすい仲だから。
信心の稽古はどこでしたっちゃ同じことじゃけん、私家には参ってきてくれなさんなと、いうことが常識的であり、道徳的かもしれません。けれども私は、常識というものを越える、道徳というものを超えて、超常識それを私は、直ぐい事だとは、そう言う事を直ぐいことだと言うのです。だから道がまっすぐ、一直線と言う事ではなくてです、曲がりくねってる道であります真の道というのは。
先ほど配給だけで、そしてかつれ死にされたと言う様な事を、道徳的というならば、道徳的なことでは助からない。道徳的であると言う事は人間として素晴らしい事であるけれども、そこに信心の道とは、自ずと異なったものであると言う事。信心させて頂く者は変人になれ、変人にならんと信心はできぬと仰るのですから。というてあれどんが、信心しよるばってん、それこそ本当の人非人になっちゃならんのです。本当の常識とか、道徳と言う事無視してしまう。
そう言う事を乗り越えての、私は常識とか道徳と言うものはありえないと、人間としての道も、私はやっぱり体得させてもらうてです。そのへんの使い分けが立派にできていかなきゃいけない。ことここに例えばここで私が申しますなら、人が助かることさえできればよいという、教祖の金光大神のご信心を、私が頂いたとするなら、もう人から人非人と言われても、この人が助かればよい、私はこの生き方なんです。そう言う様な事をです、私は変人と言うのであり、または直ぐい事だという風に思います。
例えば今教団では挙げて、一つの大きな運動が起こっております。御取次成就信心生活運動という、その運動の中身をです。もう全面的に新たな生き方に変えようとする動きなんです。愈々金光大神を世に表す事の為には、どういうあり方になったらよいかと言う様な運動が、今起きております。だからいかにです、ただ生き方とかあり方と言う事が分かっただけではいけません。お互いがみんなです、一応変人にならせて貰わなければです、金光大神を表すことはできません。
金光大神が現れて下さるというおかげを頂くためには、私ともが直ぐい道、いうなら変人にならせて頂く道を辿らなければ、金光だ人は現れてくださらないです。私は合楽はそういう意味でです。大きく全教を相手にです、もし力があるならば、今大いにかき混ぜるに、かき混ぜると言うと、語弊がありますけれども、あっちこっちの信者さんがもっともっと沢山集まってきて、先生が腹かきなさるくらいにです。そしてよくよく御神前に向かって自分の腹立ちを思いなさる時にです。
はあこれは自分の力の欠けてること、御結界をこんなにおろそかにしておる、ある教会じゃないけれども、御結界には座んなさらん、奥様がすわっちゃる位。信者が参るけれども先生が座ってござらん。お賽銭だけあげちから、いわば帰ってこにゃでけん。御理解ももちろんなか。話を聞いて助かる道というのに、月次祭にいつも繁盛したような話をしなさるばっかり。これじゃ信者がたまらん。
信者が助からん。そこで求めて止まない信者たちは、いうなら合楽で人がどんどん助かっておるげなという話を聞くと、助かるためにくるけれども、成程助かる原動力である所の御理解の素晴らしさ、いうならばその井出さんのお母さんじゃないですけれども、御理解の虜になりましたと言う様な、おかげを頂く所に、その人の助かりがある。そこで先生方がです、そう言う事になってきた時に。
これは自分の信不足であり、自分の精進不足である。とその信を求めて、または精進に精進を重ねられる事になって、自分の所から出て行った、信者位な事ではない、そこにまた生き生きとした御比礼が輝いてくるようになるでしょう。昨日桜井先生がお届けをしておられましたが、お夢を頂きました。椛目の私の妹でございます、池尻達が親子野菜屋さんになっておられる所を頂いた。もうそれこそ喜々としてもう喜びいっぱいで、お野菜の販売をしておられる所を頂いた。
お野菜とか又は果物とか、またはお魚とかというものは、鮮度で売るものである。魚の古かつやら野菜のしわ枯れたごたるとじゃいけん、そのしわ枯れたごたっとば、たぁこ売るなら誰ん買い手はなかごとなってくる。それこそ瑞々しいお野菜を、しかも働いておる者が生き生きとして、はあ有り難うございます、もったいないと言う様で、どんどん奉仕をしよんなら、誰だって例え隣同士あって、ここが元からの買い付けであってもです、ここでは誰でんそげん、人情ばかりつこうちゃおられない。
やっぱり新鮮なつの安かつの、と言う所を求めるのが当たり前。そこで自分方の新鮮度の欠けておることを悟られて、そこに新鮮な生き生きとした、信心がその教会いうならば最近言われておる、人が助かる教会と言う事が焦点になっておるそうです、御本部では。今まで人が助かると言った様な事、それこそ〇〇先生じゃないけれども、そげな奇跡の起こるはずはなか。
それは金光教じゃないと言った様なのじゃなくて、それこそ奇跡的なおかげでも、どんどん立っておるおかげを頂いておるという、それが本当だと本当な事をするから、本当のおかげが現れておるんだという見方が非常に強いそうです。合楽辺りもそういう意味で取り上げられることになってくるでしょうと思います。どうすれば合楽に人があれだけ集まるかどうしたら、そういう奇跡的なおかげが続いておるかと。
それは結局結論すると合楽の大坪という人は、それこそ素晴らしい変人だからということになるでしょう。人が何と言うても問題は人が助かる事の為なら、ここに人情を使わない。いうならば超人情で行き、超道徳で行き超常識で行く。それを私は今日は変人と聞いて頂いた。そして直ぐい道とは必ずしも一直線ではないと言う事。ある場合には曲がりくねっておると言う事。その道を歩くから有り難いとこへ出られるのである。
そこをくねり曲がっとる所をまっすぐにというて、まっすぐ行こうとするから、それこそ道に道でもない所を辿っていかにゃならん。田んぼの中に入ったり、谷やら川やらになってくるかもしれません。そこに難儀があるのです。信心の道とは、天地につながる道とはけして一直線の道じゃない、直ぐいと言う事はそう言う事だ。そこにお指図のまにまにというか、御神意のまにまに動かせて頂く、素直さが求められるわけでございます。変人になれ、変人にならぬと信心はでけん。
出来ぬと仰っておられるのですから、いわゆる人情家で終わったんじゃおしまいです。ただ、道徳家常識が豊かと言う事では信心になりません。それをもう一つ越えたもの、それを教祖は変人と云っておられます。変人にならんと信心はできん。信心ができるからおかげを受けるのです。どうぞ今日は直ぐいとか変人とかと言う事を、最近合楽で起きておる、一つの傾向を元にして、お話を聞いて頂きました。
どうぞ。